ヨーロッパこぼれ話

アラルコンのパラドール

アラルコンのパラドール

第一話 アラルコンの幽霊パラドール (Alarcon, Spain 1994)

微笑の意味するもの

わたしたちのスペイン旅行もあと3日を残すばかりとなった。車で、ビルバオからアビラ、トレド、セビリア、コルドバ、グラナダとまわり、アリカンテの近くの知人の家に3泊ほど滞在した後、イギリス行きのフェリーの出るビルバオに戻るため、北上を始めたところだった。

今日の宿は、アラルコンのパラドール。これは昨日のうちにパラドールのパンフレットを見て決め、すでに予約をしておいた。

幹線道路を離れると、細い田舎道がアラルコンに向けて伸びている。まわりには何もない。アラルコンに近づくと、今はパラドールとなっている中世の城が崖の上にそびえ立っているのがまず目に入って来た。何十軒かの家がこの城の片側に建っているが、活気がない。

パラドールの受付でチェックインをする。受付の中年男性が、「このパラドールについて誰かから聞いて来たのですか?」と聞く。そんなに有名なのだろうか?いいえ、ただパラドールのパンフレットで見て決めただけ、と答える。実はこの時の受付の意味深な微笑みは、確かに何かを意味していたのであった。翌日の朝になるまで、わたしたちはそれに気がつかなかったが。

いやな予感

このパラドールには、二階建ての部分と塔の部分に客室がある。塔の部分は四階建てであるが、客室は三階までで、一番上の階は事務室に使われているようだ。(エレベータには三階までのボタンしかない。)それぞれの階に客室は一つだけである。(つまり塔の部分には3つの客室しかない。)わたしたちは、ここの三階の客室を割り当てられた。

塔のワンフロアをまるまる占めているだけあって、部屋は広い。ソファとテーブルが置いてあり、片隅は仕切られていて、バスルームになっている。ただ変わっているのは、窓の位置である。小さな窓が二つ、南側と東側についている。それが、床の位置についている。しかも、壁が厚いので、窓を開けるためには、腹ばいになって窓の大きさの穴の中にもぐりこまないといけない。(中世の城は頑丈だったのだろう。壁の厚 さは150センチ近くあった。)そして、その穴の向こう端にある留め金をはずして窓を開けるわけである。小さい窓にしてはこの二つを開けるとものすごく風通しがよくなる。これも昔の人の生活の知恵だろうか?

パラドールの歴史についてパンフレットを読む。"El Cidego"(盲人)と呼ばれた悲運のモハメッド王子はこの城の中であえない最後を遂げたのだった。たぶんこのパラドールの中で一番古い部分、この塔の部分のどこかでムーア人の王子様は死んだに違いない。むむむ・・・嫌な予感。かくして1184年、この城塞は、イスラム教徒の手から、キリスト教徒の手に渡る。

やっぱり出た

食事はパラドールのレストランでとる。(この町には他にレストランなんてあるのだろうか?)中世風にインテリアをまとめたすばらしい食堂である。遠い昔に、飲めや歌えやの宴会がここで開かれたのが想像できる。実際に冬には中世風の晩餐会が開かれるそうだ。しかし、料理のほうはたいしたことはない。値段わりにはいまいちかもしれない。

さて、なんとなく落ち着かない気持ちで夜を迎える。それでもうとうとしたのだろうか、気がつくと、上の階でしきりに家具を動かす音がする。ベッドか机の脚を床の上で引きずっているような音だ。しかし、上の部屋は事務室のはずである。こんな時間にパラドールの従業員が部屋の模様替えをしているわけでもあるまい。それに、階段を昇り降りする足音も聞こえる。わたしたちの部屋より上には客室はない。しかも足音は間断なく続いている。いやいや、寝よう。とにかく寝よう・・・。と眠りについたものの、後ろから肩をつかまれる感じがした。これは・・やっぱり・・・。とにかくおきよう。目を覚まそう。でもおきられない。目が開かない。そうだ、声を出そう。そうすれば、夫がおきて、わたしをおこしてくれるだろう。必死に声を出そうとする。何度か試すうちに夫がおきて、おこしてくれた。やっと目が覚めた。うなされていたと夫が言う。しかし、まだ夜中である。夜は長い。寝るのも恐いが、寝ないで一晩あの足音と家具を動かす音を聞き続けるのも嫌だ。わたしは最近覚えたばかりの般若心経をひたすら心の中で唱えた。(ムーア人が般若心経を聞いて成仏してくれるかどうかはわからないが。でも耳なし芳一のように悪霊よけにはなるだろう。)そうしているうちに、うとうとしてきたのか、それとも目が覚めていたのか・・。よくわからないうちに、長い夜は明けたのだった。

チェックアウトをしに、受付に行く。昨日の人とは別の男性。「よく眠れましたか?」と聞く。また意味ありげな微笑み。今朝はその意味がわかるぞ。適当に返事をし、勘定を済ませ、アラルコンの集落を出る。そこには昨日の朝と変わらないスペインの明るい太陽。もう二度とアラルコンのパラドールには泊まるものか。

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